歴史(18)

[小坂][旧半田銀山]

二階平坑口跡

日本三大銀山の一つといわれた半田銀山坑口の一つ、旧半田銀山二階平坑口跡

日本三大銀山の一つといわれた半田銀山坑口の一つです。

嘉永7年(1854年)、幕府によって排水用として開坑されたものです。

桑折・国見町で現存する数少ない坑口後です。

引用元: 国見町周遊マップ
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[小坂][小坂峠]

旧羽州街道小坂峠

出羽から諸大名の参勤交代、御城米の輸送に用いられた、旧羽州街道小坂峠

江戸時代には、出羽から諸大名の参勤交代、御城米の輸送に用いられた重要な街道でした。

峠道は産坂と幕末につくられた慶応新道が残り、当時の険しい峠越えを伺うことができます。

引用元: 国見町周遊マップ
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[森江野][県史跡]

塚野目第1号墳

福島県中通り地方では最大の中期古墳、塚野目第1号墳

塚野目古墳群の主墳で古墳時代中期の全長52mの前方後円墳です。

福島県中通り地方では、最大の中期古墳で、朝顔形円筒埴輪が出土しています。

近くには、古墳時代後期の前方後円墳や円墳祭祀遺跡が集中し、県内有数の古墳群です。

引用元: 国見町周遊マップ
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[藤田][町史跡]

堰下古墳

和鏡「洲浜双鳥門強文鏡」が出土した古墳大中期の円墳「堰下古墳」

古墳大中期(5世紀中期)の円墳。

古墳表面には石が積まれ(茸石)、円筒埴輪が立て並べられていました。

平安時代には、経塚としても使われ、和鏡「洲浜双鳥門強文鏡(すはまそうちょうもんきょう)」が出土しています。

引用元: 国見町周遊マップ
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[小坂][伊達家12代]

伊達成宗の墓

「伊達兵部少輔成宗之墓」と刻まれた、伊達家12代伊達成宗の墓

伊達家十二代伊達成宗(だて・しげむね 1435~1487?)の墓です。「伊達兵部少輔成宗之墓」と刻まれた墓があります。

伊達成宗は、晩年梁川城から小坂の小屋館に隠居しました。その近くの寺家の地に成宗の菩提寺「五峰山松音寺」が建立されたといわれています。

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[藤田]

義経の腰掛松

源義経が平泉に下向する際、腰を掛けたとの伝説が残る、義経の腰掛松

平安時代末、源義経が平泉に下向する際、腰を掛けたとの伝説が残り、樹形が大変優美な松でした。

江戸時代には多くの旅人や文人が訪れた初代松は、現在幹を覆屋で保存しており、その傍らに二代目松から接ぎ木した三代目松を育成しています。

引用元: 国見町周遊マップ
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[大木戸]

岩淵遺跡

縄文時代中期に人々が暮らした集落遺跡、岩淵遺跡

縄文時代中期(4,500年前頃)に人々が暮らした集落遺跡です。

当時の竪穴住居跡(直径7.4m)が復元され、内部には全長3.2mの大型複式炉(石組と土器によりつくられた炉)を見ることができます。

引用元: 国見町周遊マップ
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[森江野]

森山第4号墳

古墳時代終末期の円墳4基からなる森山古墳群の一つ、森山第4号墳

古墳時代終末期の円墳4基からなる森山古墳群の一つ。

円墳中央には銅張型の横穴式石室が検出され、銀環や直刀などの副葬品が出土しました。

引用元: 国見町周遊マップ
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[大木戸]

伊達朝宗夫人墓

奥州合戦の功績により、伊達地域を与えられた伊達氏初代当主「朝宗」の婦人の墓

奥州合戦の功績により伊達地域を与えられた伊達氏初代当主「朝宗」の婦人の墓です。

周辺は、夫人の菩提寺として存在した光明寺(伊達五山の一つ)を中心に整備され、伊達氏の庇護を受け栄えました。

引用元: 国見町周遊マップ
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[藤田][国史跡]

石母田供養塔

石母田供養塔は、先祖の追善供養に建立した板碑で、梵字と功徳文が刻まれています

徳治3年(1308年)に僧智せんが、先祖の追善供養に建立した板碑で、梵字と功徳文が刻まれています。

銘文は元の帰化僧寧一山の筆跡で、鎌倉時代における禅密合一の思想を表現した特異なものです。

地元では俗に蒙古の碑と呼ばれ、周辺は満福寺の古刹跡といわれています。

引用元: 国見町ホームページ
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[藤田]

阿津賀志山防塁

源頼朝率いる鎌倉軍を迎え撃つため、藤原泰衡の奥州軍が築いた、阿津賀志山防塁

源頼朝率いる鎌倉軍を迎え撃つため藤原泰衡の奥州軍が築いた堀と土塁からなる要塞施設です。

この地区では、岩盤を削って二重の堀が造られるなど堅固な構造となっています。

引用元: 国見町周遊マップ
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[藤田]

弁慶の硯石

源義経に仕えた弁慶が硯として用いたといわれる、弁慶の硯石

源義経に仕えた弁慶が硯として用いたとの伝説や、硯となった中央の窪みには水が枯れることなく留まり続けるとの言い伝えのある奇岩です。

町内には「義経の腰掛松」など義経にかかわる伝説が伝わります。

引用元: 国見町周遊マップ
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[大木戸][ 阿津賀志山]

阿津賀志山画像碑群

阿津賀志山の中腹から山腹にかけて120体が群立する、阿津賀志山三十三観音八十八大師画像碑群

「四国八十八ヵ所」「西国三十三ヵ所」等を巡礼した梁川の仏源が、当時建立した大師堂の寄進者に報いるため嘉永6年(1853年)から建立した石碑です。

一石に一体の観音菩薩または弘法大師の像が刻まれ、阿津賀志山の中腹から山腹にかけて120体が群立しています。

引用元: 国見町周遊マップ
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[大木戸][貝田姥神沢]

旧鉄道レンガ橋

重厚なつくりとアーチ構造が魅力的な近代化遺産、貝田姥神沢旧鉄道レンガ橋

明治20年(1887年)から大正期末期まで鉄道(現在のJR東北本線)が施設されていた名残を残すレンガ橋(現在は町道の一部)です。

重厚なつくりとアーチ構造が魅力的な近代化遺産です。

引用元: 国見町周遊マップ
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[大木戸][旧奥州道]

長坂跡

芭蕉も「奥の細道」で険しい道のりを記している、旧奥州道中国見峠 長坂跡

江戸時代、奥州道中の難所であった国見峠。芭蕉も「奥の細道」で険しい道のりを記しています。

長坂跡は、約300mにわたり街道跡が良好に残り、当時の雰囲気を感じることができます。

引用元: 国見町周遊マップ
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[大木戸]

貝田口留番所跡

軍事・交通の要衝であった旧奥州街道貝田宿の町尻に置かれた関所跡、貝田口留番所跡

嘉永15年(1638年)、軍事・交通の要衝であった旧奥州街道貝田宿の町尻に置かれた関所跡です。

幕府領時代から幕末までは、地域の役人が世襲で番所役を務め、現在でも貝田では「御番所」と呼ばれています。

引用元: 国見町周遊マップ
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[大枝][国史跡]

阿津賀志山防塁 下二重堀地区

泰衡軍が頼朝軍を迎撃するために築いた3.2Kmにも及ぶ、阿津賀志山防塁 下二重堀地区

世界遺産「平泉」を築いた奥州藤原氏。4代泰衡と源頼朝が戦った奥州合戦最大の激戦地が国見町です。

泰衡軍が頼朝軍を迎撃するために築いた3.2Kmにも及ぶ堀と土塁からなる「阿津賀志山防塁」は、我が国の三大防塁の一つです。

引用元: 国見町周遊マップ
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[藤田][町史跡]

藤田城跡

源頼朝の本陣が置かれたとの伝説が残る、鎌倉から室町時代の平山城「藤田城跡」

鎌倉から室町時代の平山城。

源頼朝の本陣が置かれたとの伝説が残り、伊達一族である藤田氏の居城と推定されます。

南北朝時代には南朝方の城として、激しい攻防の末、霊山とともに落城しました。

引用元: 国見町周遊マップ
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